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Citadelle シタデル から Tour de Mont-Fatトゥー・ドゥ・モンーファ を含むMeuse川から切り立った崖は、それ自体自然の要砦であり、その頂きから下を流れる川を通行する船舶を監視するには最良の場所である。中世の時代から第二次世界大戦に至るまでその様に使われてきた。
この地方を含めベルギーの南東部の高地をArdenne アルデンヌと言うが、ここは欧州でも非常に古い地質で標高約400メートルから700メートルの古生代のもので、東はドイツのライン川西岸から西はフランス北部ピカデール地方の際、南はルクセンブルグに広がり、カエサル=シーザーも「ガリア最大の森」と記している。アルデンヌの名はケルト語の“ARDU 高い”が語源で、高地の森を意味する言葉になったと考えられている。深い神秘的な森はシェークスピアの『真夏の夜の夢』の舞台である、とベルギー人は言う。事実はアテネ近郊の森であるそうだが、その様に言われても納得してしまう趣がそこにはある。であるから、ケルトの昔から伝承、伝説が多い。ニつの有名な物語が有る。一つは狩りの守護聖人“聖ユベール”のもので、天気概況でよく登場するSt-Hubert サン・チュベール がその聖人が祭られているベネディクト派の修道院が在る町である。 そしてもう一つの物語が、天駆ける超人ならぬ『“超馬”バイアールとエーモン4人の息子』のそれである。アルデンヌに馴染みの深いカール大帝の家臣であるエーモン・ドゥ・ドルドンヌは、パリのカール大帝の宮廷に ルノー、リシャール、アラール、ギシャールの4人の息子を連れ謁見に来た。騎士に叙任された翌日、経緯は兎も角、ルノーは大帝の甥のベルトレを殺し大帝の大国から追放される。漆黒の妖力を持った“超馬”バイアールに乗った4人の息子と、魔法を使う従兄弟のモージスはアルデンヌの森へ逃れ、ミューズ川の辺のモンテソーに城砦を築く。しかし、大帝に攻撃され、再びバイアールに乗ってアルデンヌへ身を隠す。その時、バイアールがミューズ川を飛び越え、蹄の跡を付けたのが今も残るディナンの“バイアールの岩”だと言う。Dinant ディナン の紹介の写真では、Collégiale Notre-Dame (コレジアル・ノートル・ダム ノートル・ダム教会)とCitadelle(シタデル 城砦)の両方が写されたモノがよく使われるが、シタデルの下、教会の背にあるのが、その巨岩である。 ▲
by ceresteaks
| 2006-07-31 15:55
今回、最大の目的の一つがBrasserie du Bocq ボック醸造所訪問である。尤も、小生の好む“虚仮の一念”の如き小品目、少量手造りの所とは大きく異なり、依託生産も数々、多種多品目生産の節操の無い様に見える所である。ところが、Blanche de Namur ブリンシュ・ドゥ・ナミュール や Saison Regale セゾン・レガール 等の秀逸なモノがある。La Gauloise ラ・ゴロワーズや 依託生産の St.Feuillien サン・フーリアン と Corsendonk Agnus コルセンドンク・アーニュス、と言った素晴らしいビールもある。いったいどんな醸造所なのだろう、との思いが強かった。これには、Du Bocq と同類と思っていたVan Steenberge ヴァン・ステーンベルグ 見学のときの嬉しい誤解解消の経験が伏線となっていた。その約束の時間前に、何度も計画して果たせていない、Dinant の Citadelle(シタデル 城砦)からの眺望を経験する事にした。まだ暗い早朝にホテルを出て、Meuse川を南下する。何度見ても、何度通っても、感動が沸き起こる眺めである。事前の、小生の調査では、1月のこの時期はシーズン・オフで殆どの観光スポットは閉まっている。Citadelleのケーブルカーも例外ではなく、日曜日だけの運行である。しかし、砦そのものは開放されているだろうと思った。そして、我等は車で頂上台地の駐車場に着いた。何と、何と、ゲートが設けられて、それが閉まっている。諦めの悪い小生は、皆さんを引率した責任も有り、周辺を駆けずり回った。近くのカフェの主人にも問い質してみたが、答えは絶望的であった。それでも、“チラリ”とでも覗ける所が有る筈、有って欲しい、と場所を換えた。打ち捨てられた様な時代遅れの遊技設備のある遊園地に着いた。ここも閉鎖されていた。暫くすると、一台の車が寄って来て、中から一人の青年が現れた。
Jan君と何やら話していたが、その青年はこの土地と設備の所有者の家族で、この場所を売りに出し、見学者を待っていた、との事だ。その土地の中に “Tour de Mont-Fat(トゥー・ドゥ・モンーファ 自惚れ男の山の塔)”が有る。これはCitadele から続く、言わば一体を成すものと思しきモノだ。それが個人所有で、しかも売りに出している。ナンダ~これは。京都の清水寺の舞台、それを横から望むそれに連なった舞台、それが個人所有だったら何としよう。 冷静になって、少し記憶を辿った。日光の華厳の滝が個人所有なのである。否、正確には 唯一それを見る事が出来る場所とそこに行く手段、この場合はエルヴェーターであるが、それが千明家の所有なのである。有り得ない事では無いのだろう、と思い直した。 そして、とてもとても幸運な事に青年の案内でTour de Mont-Fat に入れてもらい、狭い暗い石の螺旋階段を登り、息が切れた頃、頂上に出た。物見の塔のテラスである。素晴らしい眺望、眼下にMeuse川とそれに張り付くが如きDinant の町。川の向こうに緩い起伏の台地が広がる。天地創造もかくや、との思いが膨らむ。しかし、直ぐ手前を見ると、鉄製の棒が一本。それも低い。それに気付くと、足が竦む。ジリジリと後ろに後ずさりし、出入り口付近の頑丈そうな手摺に掴まった。それにしても同行の大先輩達は元気で、冒険心に溢れている。 ▲
by ceresteaks
| 2006-07-25 12:21
我等が泊ったホテル側、詰り Meuse川の西岸の方が開けていて町も多い、しかし大型スーパー・マーケットCarrefour カルフール は対岸に在った。広々とした駐車場に車を置き中へ入る。ベルギーでこの手の大きい建物は馴れている筈であるが、その大きさに些か戸惑った。
何が何処に在るのか、それを理解するのに時間を要した。又 Charcuterie (シャフクトゥリー 豚肉加工品)でもその種類は膨大で目移りがしてしまう。目指すビールも期待を裏切らなかった。それでも、偏執狂のベルギービールマニアには新たな発見は無かった。それらを抱えて、我等はホテルへ帰った。広々とした細井御夫妻の部屋で宴は始まった、当館のマダムが、お願いした飲み物を部屋に運んで来て呉れた。事前に買い入れたビールの一つは Rochefort⑩ であった。冷やし過ぎないように、敢えて冷蔵庫に入れず、1月の冷たい外気に接した窓際に置いておいた。欧州のホテルでミニ・バーと記してあるのは小型の冷蔵庫とその中の飲み物を指すものである。その温度設定はまちまちで、多くは低くないので私の望に近いのだが、このホテルのそれは最新のモノで冷え冷えであった為、前述の様にした。しかし、宴会で食べながら飲みながらでは、ビールだけを楽しむ時より冷たくした方が存在感を発揮する様だ。これは、発見だ。 テーブルにハム、チーズ、野菜、果物、パン等の高級珍味では無い数々が並んだ。楽しい旅の最中の、静寂に包まれたお伽の国の館での、気の合う方々との催しである。この上なく楽しい時間が過ぎていった。いよいよ明日は、Brasserie du Bocq ボック醸造所 である。 ▲
by ceresteaks
| 2006-07-24 10:54
我国のみならず、郊外に駐車場完備の大型ショッピング・センターがある光景はよく見掛ける。ベルギーおや、である。Meuse ミューズ川沿いに小さな町が、張り付く様に点在する。
小生がベルギーに生活の拠点を移し、自家用車を持ち、最初にドライヴしたのが Dinant への、正に今回何度も通った路であった。現在は、路は拡幅され凹凸の少ない、見事な舗装道路で、標識も見易く配置してある。更に、町を迂回する新しい自動車専用道路も出現した。ところが、個性的な小さな町々を巡る楽しさが薄れ、その土地土地の特産物を買うのが難しくなった。結果、お土産小売店が少なくなった。どころか、郊外ショッピング・センターの出現により、地域社会に密着した日々の生活必需品を商う店まで所々姿を消した。尤も、便利さを享受している事は否めない。況して、時間の制限のある旅行者には有難い限りである。 30年前にも、当然ショッピング・センター=スーパー・マーケットは有った。当時、“GB ジェー・ベー”、“SALMA サルマ”等が代表的であったが、その後“Delhaize デレーズ”, “Carrefour カルフール”が台頭している。我等も、Dinant の後、ショッピング・センターで食品を購入し、ホテルの部屋で宴を行う予定にした。ところがその前に、Dinant の町外れの万屋(よろずや=何でも屋)で、『Dinanderie デナンドリー を買いたいたいが、何処で入手出来るか。』と尋ねてところ、前述した悲しい状況を答えて呉れた。しかし、そのやり取りを聞いていた、たまたま買い物にきていたライダー姿の男性が、『古い作家名の刻印の有るDinanderie を持っているが、譲ってもいい。』と言ってきた。そこで、車で10分程の所に在ると言う彼の家へ行く事にした。Jan 君は怪訝な顔をしていたのだが。町から東の高台へ向かう、10分と言うには遠い所であったが、類似形の建売らしき長屋住宅が立ち並ぶ住宅地の中の、その一軒に招じ入れられた。小生が知っているベルギー人の住宅の、見事に整理整頓された室内とは違った、散らかった部屋がそこにあった。男性は大きめのフラワー・ポットの様な球状の Dinanderie を二つ持ってきて、ルーペでその底側にある刻印を見せてくれた。その値段は50ユーロ であった。しかし、我等の望むモノと違ったので決裂した。この話は後日談がある。 ▲
by ceresteaks
| 2006-07-16 11:02
彼 Antoine Joseph Sax の像は、前述の彼の名の通り沿いに建っている。そして、彼の業績を称え、毎年ここ Dinant で世界的なサキソホーン・コンテストが行われている。因みに前年のグラン・プリはフランス在住の日本人女性だったそうだ。
我等 Beer Lovers にとって嬉しいのは、Brasserie Caracole カラコール醸造所がSaxo サクソ と言う銘柄のビールを出している事だ。この醸造所は1990年にNamur で興り、1994年に1971年に閉鎖された古い醸造所を買い取り、 Dinant 近くに越した。Saxo は20%程小麦を使っている、と醸造家 Charles Debras シャルル・ドゥブラ の説明であった。小麦比率が30%以上で白ビールと呼ばれるようで、Troublette (トローブレットゥ 一寸濁った。)と言う白ビールも造っている。 ▲
by ceresteaks
| 2006-07-10 11:02
”Les Atriers Mécap レ・アトゥリエ・メカプ”で、その手工芸品製作に根気の要る重労働を見た。現代の工業技術をもってすれば、鋼材を型に入れ、機械で圧力を加え、部品を取り付け、磨く事は雑作無い事であろう。斯して、新興工業都市へ拠点が移っても宜べなるかな。
そのアトリエから、町の中心部へ向かう途中に Rue Adolphe Sax リュー・アドルフ・サックス と言う通りが在る。Antoine Joseph Sax アントワンヌ・ジョセフ・サックス (= Adolphe Sax アドルフ・サックス) は、1824年 11月 6日に ここDinant に産まれ、1894年 2月 7日に Paris パリ で永眠した。彼の父も楽器製作者であったが、父の薫陶を受けたか門前の小僧状態であったかは知らないが、A. J. Sax は出藍の誉れ高い人物に成長した。バブル操作の楽器に彼の革新的発想を見る事が出来る。多作であるが、その中には不思議な姿形のモノもある。それらの一部を、Art Nouveau アール・ヌヴォー の建造物としても有名な Bruxelles の楽器博物館(Musée des Instruments Musique ミュゼ・デ・アンストゥルモン・ミュジック)で見る事が出来る。彼の代表作は何と言っても Saxophone サキソフォーン で、その外に Sax-Horns サク・ソルン、Saxotrombas サクソトロンバス、Sax Tubas サクス・チューバがあり、 Saxophone サキソフォーン の中には Sopranino ソプラニーノ (渡辺貞夫さんが演奏している。)、Soprano Sax ソプラノ・サックス、Alt Sax アルト・サックス、Tenor Sax テナー・サックス、Baritone Sax バリトン・サックス、等々。全部で7とも14とも言われるヴァリエーションがあるそうだ。Tubas チューバを小型にした様な B♭管のEuphoniums ユーフォニューム も彼の発明品である。彼自身 Saxophone演奏家として Berlioz ベルリオーズ の交響曲に参加しているし、パリ音楽院の教授として指導もした。彼無くして、現代のオーケストラもビッグ・バンドもマーチング・バンドも演歌の伴奏も無いのである。 ▲
by ceresteaks
| 2006-07-09 16:40
そのMeuse川沿いの大絶壁に建つ Citadelle(シタデル 城砦)と、麓の両者に挟まれた正に一衣帯水の、Namurとのクルーズの一方の基地としての町。そして管楽器サキソホーンの創作製作者”Adoph Sax アドルフ・サックス”の生誕地としても知られている。我等にとっては、”Leffe レフ”商標のビールで有名な”Abbaye de Notre Dame de Leffe アベイ・ドゥ・ノートル・ダム・ドゥ・レフ / レフ修道院”が在る事で記憶に著しい。決して大きな町ではない。その理由の一つは地理的に拡張の余地が無い。しかし、多くの興味ある特産品や建造物や特異な自然環境は魅力あるモノである。上記以外の例として、ジンジャー・ブレッドと供に紀元前より存在すると言われるCouque de Dinant (クック・ドゥ・ディナン 固焼き型抜きビスケット),隣接する森の果実を漬け込んだ Liqueur (リキュール)、ハム、乳製品、蜂蜜、蝸牛、まだまだあるが、特筆すべきはDinanderie (ディナンドリー)。それは銅製の工芸品で、この地の伝統職人業物である。観光ガイド・ブックにも必ず紹介してあり、この地の目玉商品であった。1995年この町のLeffe修道院すぐ近く Rue de Moulin 13 に在るディナンドリー製作所”Les Atriers Mécap レ・アトゥリエ・メカプ”で、大阪で剣道修行をした職人オーナーからレリーフ様の壁掛け打ち出し銅版を購入(現在も弊店に陳列)したときも、それは有名で、このアトリエの道を隔てた向かいにも、専門の展示売店が在った。Dinant の町のあちこちに在った。のみならず、対岸に美術館然とした立派な建物も在った。それが、今回、探し回ったが殆ど何も無い。件のアトリエも呼び鈴を押せども誰の応答も無い。お土産屋さんと思しき店の主人に、その旨を告げ、改めてそれを買える店を尋ねたら、Dinantには無い。ディナンドリーはこの町から消滅した。と衝撃発言を聞かされた。・・・・・・続く。
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by ceresteaks
| 2006-07-06 09:21
Maredsous マレツー修道院へ向かう。そこは、人里離れた台地の上に広大な敷地を有し、こちらは“神学校”も併設し、現在も修道院として存在している。以前、ここを訪れたときは、Meuse ミューズ川沿いの[N92]から、西側の高台へ向かう[N971]へ入り、そこへ至った。森を抜け、小川を越え、聞えるのはせせらぎの音と、木の葉の触れ合う音だけ。正に隠者の里に足を踏み入れる感があった。しかし、今回は Floreffe フローレフの高台から続く道を通ったので、それ程の隔世感は無い。Maredsous マレツー修道院のシンボルとも言える、その名のビール壜のデフォルメされたラベルの絵柄にもなっている教会の尖塔が、先ず見えて来る。以前は、教会前広場にテント張りの簡易カフェが設置されていたが、現在は、教会より、少し南の並びにブティック(修道院グッズ売店)も在る立派な新しい建物へ移動していた。近代的過ぎて、学食の様でもあり、風情が無く有難味に欠けていた。ここでもドラフト・ビールだけの販売であった。簡単な“おつまみ”とビールの注がれたグラスをプラスチック・トレーに乗せ、予め確保していたテーブル席に着いた。デパートの大食堂、空港のカフェテリア等に居るのと然程変わらない心持で、十年前を懐かしく思った。
長居は出来様筈もなく、Dinant デイナンの町を含むMeuse川沿いを周遊しながらホテルへ帰る事にした。 ▲
by ceresteaks
| 2006-07-01 20:18
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